新渡戸稲造が世界に向けて語った「武士道」

日常

この記事では、「武士道」という本から日本人の本質を紐解いていきます。

武士道という本は、新渡戸稲造が考える日本人精神をまとめ上げた本です。
(2022.04.20現在 prime readingで無料)

日本人の精神性について、海外向けに書かれた本であり、客観性の高い読みやすい構成になっています。以下に、kindleでの紹介文を引用しておきます。読み飛ばしOKです。

かつての日本には、わが国固有の伝統精神があった。武士道もそのひとつである。それは、新渡戸稲造が1899年に英文で『武士道』を発表し、世界的な大反響を巻き起こした。

(中略)

当時の明治期と同様、現代の私たちは急速な国際化の中で、日本人のアイデンティティを見失いつつある。今こそ私たちはもう一度「日本人とはなにか」を問い直す時期にきているのではないか。倫理観・道徳観を改めて考えることができる格好の書。

kindle書籍紹介より引用

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読むメリット

この本に対する私の評価は以下のようになります。
「役に立つ」「独自性」を☆☆☆☆☆としているので、その部分を解説します。

おすすめ度 ☆☆☆☆
おもしろさ ☆☆
役に立つ ☆☆☆☆☆
読みやすさ ☆☆
斬新さ ☆☆☆
独自性 ☆☆☆☆☆

日本人にとって常識だよねの根拠

日本人は「日本人らしい」考え方をします。

・卑怯なことをしてはいけない
・お金を稼ぐことはなんとなく汚いことのように感じる
・マスクがいつまで経っても外せない

こうした考え方は、日本人にとっては一般的ですが、なぜ一般的になっているのか疑問に感じませんか。「家族にそう教えれたから」というのであれば、家族はなぜそのように教えるのでしょうか。

こうした疑問の答えとなるのが、武士道という本です。
100年以上も昔の話ですが、私たちは武士の時代の価値観を色濃く受け継いでいるのです。

日本人らしさを評価するつもりはありませんが、日本人らしさという「自分の思考の癖」を知っておくことは重要です。
そういう意味で、役に立つ本だと考えます。

百年以上前に書かれた日本人らしさ。
今の時代でも力を発揮する考えたもあれば、今の時代では足を引っ張りかねない考え方もあります。

他では学べない

独自性というのは、他の本ではほとんど言及されない情報を得られるという意味で評価しています。

会社で生産性を上げる方法などは、同じような内容について、表現を変えて本にされていることがしばしばあります。時代やターゲット層に合わせた表現が求められます。

一方で、この本に書かれている内容は、類似したものをほとんど見たことがありませんでした。

ここでしか得られない視点、考え方を得られれば、人と少し違ったアイデアマンに慣れるかもしれませんね。

昔の本は偏見が強いと思っていましたが、この本は世界中の人に向けて書かれたこともあり、非常に客観的でした。こんな本なかなかないと思います。

 

武士道の起源

武士道の根底には、どのような考え方が根付いているのでしょうか。

孔子の教えと孟子の教え

武士道の道徳的な教義は、孔子の教えが最も豊かな源泉となっています。

その教えが日本人にもたらした考えについては、これ以降でお伝えしてきます。

 

教えについては、興味深い考え方があったので、そちらを紹介します。

「しかし、教えを知っているだけではだめだ。知識というものは、これを学ぶものが心に同化させ、その人の品性に現れて初めて知識となる。」

武士道は、知識を重んじるものではなく、行動を重んじる考え方でした。それゆえに、武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないのです。

たくさん本を読んで知識を身に着けても、それが行動として表れなければ、「読書の虫」として笑われてしまいます。

評価されるのは知識ではなく行動や成果、というのは今も昔も変わらないですね。

武士道の特性

ここからは、具体的な武士道の特性を紹介します。
難しい話や、観念的な内容も多くなりますが、

「確かに日本人ってそういう考え方してる!」というような共感ポイントを見つけてほしいと思います。明治時代の日本人の古き良き考えを学び、自分をアップグレードしましょう。

中には「現代では通用しないだろ」という内容も当然ながら含まれています。そんな中でも、どうすれば今の自分に使える知識になるかな、という好奇心とともに読み進めてみてください。

義とは、不正や卑劣な行為を自ら禁じて、死をも恐れない正義を遂行する精神のことです。また、義にはこの「人としての正しい行い」と同時に、「打算や損得を離れる」という意味が含まれます。

今の日本にも「義」のつく言葉はたくさんあります。

正義、大義、忠義、仁義、恩義・・・
日本人にとって「義」は重要な位置を占めていました。

武士にとって、卑劣なる行為や不正なふるまいほど忌まわしいものはありませんでした。
武士は義に従って決断をするのです。

打算や損得を離れるためには、欲望を抑えなければなりません。

現代人は、突き詰めると「どっちが得か」という数値化できる相対的な考え方をよく行いますが、「義」は数値化できない絶対的な価値基準をもとにしています。それ故に、「命」よりも「正義」のほうが大切という観念も生まれてくるのです。

義は現代常識となっている金融知識とは逆行している部分が多いです。

義のつく単語の一つに「義理」がありますが、この言葉の真意が面白いと感じたので紹介します。

「義理は、義務以上の何物でもない。」

たとえば親に対する私たちの行動は、愛が唯一の動機であるべきです。しかし、それがない場合は、親孝行を強いるための何らかの権威が必要となります。そこで人々はこの権威を義理としたのが起源です。

愛により引き起こされる行動を、強制するときの理由付けとして義理があります。
会社への義理を語る人は、その権威を振りかざしてあなたをコントロールしようとしているのですね。そして、それはあなたが仕事に対して愛がないからとコントロールしないと思っているのです。
私は義理を語る人には苦手意識があります。
義理を重んじる人は、義理を重んじない人の価値観を理解しようとしない人が多いですからね。

勇は義のために行われるのでなければ価値はないとされた。言い方を変えると「勇とは正しきことを為すこと」とも言える。

戦場に飛び込み、討ち死にすることは勇とは言わないようです。これは身分の賤しい者にもできる。生きるべきときは生き、死ぬべきときにのみ死ぬことこそ真の勇気とされます。

剛胆、不屈、勇敢、大胆、勇気などは、少年の心に最も浸透しやすい心情として、訓練や鍛錬に拠って鍛えられたのです。少年たちは、幼い頃からこれらを競わされました。
子供が何かの痛みで泣けば、母親は「これしきの痛みで泣くとは、なんと臆病者でしょう。戦で腕を切り落とされたら、どうするのですか。切腹を命じられたらどうするのですか。」と励ましていたようです。

勇気と合わせて忍耐も美徳として扱われたようです。
サムライは腹が減っても、ひもじいと思っては恥なのだと考えられていました。

現代では、「これぐらいの仕事で弱音を吐いてたら、私が20年前にやったプロジェクトなんて全然耐えられないと思うよ。」と上司に励まされますね。

敵に塩を送るは勇の現れ。
本当に勇のある人は、常に穏やかです。決して驚かされず、何物にもその精神の均衡を乱されることはありません。

愛、寛容、他者への情愛、哀れみの心のように、仁はとても気高いものだとされていました。

封建君主は自分の家臣と相互の義務を負うとは考えていませんでしたが、それ以上に先祖や天に対して高い責任感を抱いていました。君主は領民の上に立ち、天から領民の保護を預かっていると思っていたのです。

現代に置き換えると、会社は天や先祖に対して責任を感じるが、従業員に対しては感じないということなのかも。

日本では、君主が権力を自由に行使することは、ヨーロッパほど重圧だとは思われず、むしろ領民の感情に対する考慮として、穏やかなものに感じられていたようです。

ドイツの政治家ビスマルクは、「絶対主義に第一に必要なのは、当事者が公平かつ正直で、義務感が強く、精力的で謙虚なことである。」といっています。

徳があれば、絶対主義も許されるという考え方ですね。

武士の情け

武士たちは、正義や公正さを持つことなしに、むやみに慈悲に溺れることを戒められていました。
「義にすぎれば固くなる。仁にすぎれば弱くなる」
バランスが大事だと伊達政宗も仰っていたようです。

「最も勇気ある者は最も心優しいものであり、愛あるものは勇敢である。」これが真理だとされていました。だからこそ「武士の情け」という言葉には、高潔なる心情に訴える響きがあります。それは、武士の情けは、盲目的な衝動に駆られるものではなく、常に正義に対する適切な配慮を含んでの慈悲であったからです。

誰にでも優しい人間って、なんか物足りないのは高潔さが足りないのかな?

また、か弱き人や、敗れた人、虐げられた人への仁の愛情は、特にサムライに似つかわしいものと称賛されていました。

日本人の礼儀の良さは海外から認められています。
現在の日本人にも、この礼の精神が十分に受け継がれているのでしょうか。

礼は他を思いやる心が外へ表れたものでなければならないのです。礼を極めていくと、ほとんど愛に近づきます。「品性の良さ」を損なう恐れがあるがために行われる礼は、貧弱な徳です。

こう考えると、あなたの礼はどちらでしょうか。
一度考えてみましょう。

思いやりのある礼と、そうではない礼は、自分が受けていてなんとなく分かってしまいますよね。

礼儀作法

思いやる心が表れたものが礼だというのなら、礼儀作法は無意味かと思いきや、そうではありません。作法には、心の状態を効率よく相手に表現する力があります。また、礼を厳密に守ることに拠って道徳的に訓練されるのです。

正しい作法を絶えず訓練することによって、身体のあらゆる機関と機能に完全な秩序をもたらし、肉体と環境とを調和させることによって精神の支配を行うことができるというのです。

優美さが無駄を省いた作法であるならば、優美な立ち振舞の飽くなき練習は、内なる力を蓄えることにつながると言えるのです。ですから、洗練された作法というのは平静状態の無限なる力を意味するのです。

礼儀作法は、礼を伝えるために洗練された行動。
作法をただ真似するだけでは意味がないかと思いきや、真似することで内面も訓練されるのです。
礼儀作法は大切にして損はありません。

嘘をついたり、ごまかしたりすることは、卑怯者とされました。
武士の一言はとても重いのです。
武士に二言はないといいますよね。

武士の約束は通常、証文なしに決められ実行されていました。
むしろ証文を書くことは武士のメンツが汚されることであったようです。

「相手に対して誠実であれば、相手も自分に対して誠実でいてくれる」と考えてしまうのは、このあたりから来ているのかもしれませんね。
この考えは甘いのかもしれません・・・。

銭勘定を嫌う

日本人のいい加減な商業道徳は、海外から見ると異様だったようです。
世の中の高い立場にある職業で、商業ほど武士とかけ離れたものはありませんでした。

しかし、武士が銭勘定から離れていたことには意味があります。
貴族を商業から遠ざけておくことは、富が権力者に集中することを防ぐために褒められた政策だったようです。

そして、武士は報酬を得るために道を歩んでいるのではないのです。

権力×商業=富の集中
日本人が金融リテラシーが低いのは、「お金を求めないことに美学を感じており、損得に生きことは徳ではなかった」からだと思いました。
現代社会でも、「日本人として気高くあること」と、「お金を稼ぐこと」は相反すると考えてる人が多いと感じます。

名誉

名誉は命よりも重いと考えられていました。

サムライたちは少年時代から高潔さに対する屈辱を恥だと感じるように育てらていました。
「笑われるぞ」
「名を汚すなよ」
「恥ずかしくはないのか」
といった言葉は、過ちを犯した子供に向けられる最後の訴えでした。

名誉で飯が食える時代という感じですね。
寛容さや忍耐は、名誉による過度な行動を防ぐ働きをしていました。
些細なことで怒るものは短気として笑いものにされました。孟子も、些細なことではなく大義のために憤りを感じろといっています。
また、名誉はたとえそれがただの見栄や世間の評判に過ぎないようなものまでも、この世における最高の善だと尊ばれました。サムライの若者の目標は、知識や富でなく、名誉を得ることだったのです。
自分が幸せだと思った幸せ。と思っているので、他人に認められることが人生のテーマであることは辛そうだと思います。
名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われていた。

忠義

私たち日本人が抱いていた忠義の観念は、他の国とは異なっていたようです。
それは、他の国が到達できなかった高さまで発展させたという意味で、です。

家来の取るべき忠義は、あらゆる手段を尽くして、主君の過ちを正すことです。もし、それがうまく行かないときには、武士は自分の血をもって誠実を示し、主君の叡智と両親に最後の訴えをするのが、極めて普通のことだったようです。

上司が間違ってることを言っていると思っても、言い返さずに指示通り業務を遂行する人は忠義が足りないということになりますね。
上司に言い返すことは得がないですよね。・・・。

 

武士の教育

品格

武士の教育において最も重んじられたのは、品格の形成でした。
サムライは本質的には行動の人であり、学問はサムライの行動範囲の外だとされていました。
そのため、思慮や知識などの知的才覚はさほど重要視されませんでした。

知識だけあり、行動が伴わないものは笑いものにされました。

金銭

また、武士は金銭そのものを忌み嫌い、金儲けや蓄財を賤しみます。
富は知恵を妨げるという考え方があったようです。
そのため、武士の子は経済のこととは全く無縁に育てられ、経済のことを口にすることは下品とされ、金銭の価値を知らないことはむしろ育ちの良い証拠でした。

現代社会では考えられませんね。
ファイナンスの面では武士道では生きていけなさそうです。

教育における価値は、明確でも具体的でも計量可能でもないことが良いとされました。

国民への影響

ここからは、武士以外の一般的な日本人の考え方に触れていきます。

克己

武士道はストイックです。

  • 不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養う
  • 他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さない

この2つがストイックな精神を育み、ついには国民全体に禁欲主義をもたらしました。

日本人は、魂が揺さぶられた時、それが外側にあらわれることを本能的に抑えようとします。
心の奥底にある思想や感情を述べることは、その思想が浅く、誠実でないことの表れだと受け取られてしまうのです。

根性さえあればスポーツで勝てると真剣に思っていた時代もありましたよね。
合理的ではありませんが、それにより生まれていた克己の精神は確かに存在したと思います。

 

また、日本人は自分の性格の弱点を突枯れたときにでも、笑顔を絶やさないという傾向があります。これは、乱された感情のバランスを取るためのものです。

面白くないことに笑わないといけないときは疲れます。

切腹や敵討ち

命よりも名誉が重要だった時代では、切腹は名誉だと崇められました。
中には、簡単な理由で切腹を行った者もいたようですが、現実を避けるための死は卑怯だとも捉えられました。天命を果たそうとする死こそ最高の名誉だったようです。

自分の命以上に、家柄や一族の名誉が重要だと育てられてきたので、自分の命をかけて名誉を守ることは武士にとって自然なことでした。
敵討ちの精神は、「目には目を。歯には歯を。」と言えます。やられっぱなしでは精神のバランスが取れないので、敵討ちを行います。
復習が正当化されるのは、目上の人や恩義ある人のために行われる場合のみであった、自分自身や妻子に加えられた害は、個人的なこととしてひたすらに耐え忍び、許さなければならなかった。
敵討ちは、忠誠心の延長線上にあるのでしょうね。
復讐ってどこか人を酔わせる響きがありますね。

武士道にとって、刀は魂と武勇の象徴でした。刀に対する無礼が、持ち主に対する侮辱だとみなされ、責められました。

まとめ

武士道は、現在の我々が失ってしまった日本人の伝統的精神について、知識を獲得するのに最適な本です。内容は、人間としてかくあるべきという道徳規範の本です。

とっても簡単にまとめる

  • 人には優しくあれ
  • 正直であれ
  • 嘘を付くな
  • 卑怯なことをするな
  • 約束を守れ
  • 弱いものをいじめるな
  • 親孝行をしろ
  • 兄弟仲良く

これらの思いを良心と呼び、われわれはモラルを犯すと良心の呵責に襲われるのです。

 

 

 

 

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